「生徒のため」という思い違いと線引きの問題について | t-labo(中学校教師の支援サイト)

「生徒のため」という思い違いと線引きの問題について

教員の世界では「生徒のため」と言われると何でもしないといけないような風潮があります
ある種の水戸黄門の印籠のようなものです

しかしながら、それは多くの場合ミスっていることがあるのです



私が考える「生徒のため」で痛いのは

1 「生徒のため」と言って、自分が正しいと自分の主張を押し通す(うまくいかない教員)
2 「生徒のため」と言って、過剰に生徒サービスを行い、同僚たちに残業を増やす(私生活が充実していない教員)


というものだと思います
生徒のためという言葉はとても便利であるがゆえに使われてしまいます

簡単に触れておくと、

1は、うまくいかない教員は自分がうまくいかないことをやっているにもかかわらず、生徒のためといって、うまくないやり方を押し通そうとするわけです
「生徒のためにやっているんだから!」と言えば周囲はあまり批判はできず、成果を上げてなくても生徒のためにやっていると本人は主張できます
生徒のためといっておけば何でも許されるので、本人は自分のやり方を改善しようとしません

自己正当化のために使われるパターンですね




2は、毎日宿題を出したり、放課後の補習をしたり、部活動を熱心に面倒見たり、行事で余計な仕事をどんどん増やしたりするケースで、それをなぜか「生徒のため」として周囲の教員を道連れにするパターンです
こういうことをやるタイプは、自分の私生活が充実していないので、自分が活躍しているという満足感を仕事で得たいのです

自分がやっていることを正当化するために、周囲の教員を巻き込んで、自分が肯定される環境を作り出そうとします
そのために魔法の言葉「生徒のため」を使うわけです


という感じで、生徒のためというのが、「自分のため」になっているケースがほとんどです
そういう教員は正直なところ言えば、線引きができていないのです
教員としてやるべき範囲は何なのか、教員の仕事とは何なのかがわかっていないのです


放課後の補習なんてやる必要はありません
勉強したい生徒は家ですればいいし、自分で塾に行けばいいのです
それを教員の仕事だと勘違いするから、残業が増えていき自分のプライベートな時間がなくなってきます




そうやって変な主張をして道連れにしようとする教員がいるのですが、「それは教員の仕事ではない」と明確な線引きを主張できない周囲も悪いのです
主張できないということは、その本人が線引きができていないということです

極端なことを言ってしまえば、朝の挨拶当番があるとすると、それが学年ごとに週替わりで行われているとしたら、これもおかしな話です
どうしてかと言うと、それは勤務時間ではないからです

「生徒のため」として朝の正門での挨拶をするのは仕事ではないんですよ
ただの趣味なんです
それを当然のように周囲に強制することがおかしいのです


もっと言えば、職員会、分掌部会、学年会などの会議についても、勤務時間を超えるのはおかしいのです
「そんなこと言っても話す内容が多いのだから仕方ないだろう」と反論が来るでしょう

それならば、話す内容を減らすために先に資料配っておく、決めるところは先に結論を出しておく、複数回行うようにする、その会議がある日は5時間授業にする、掃除をカットするといった形での対策をすればいいだけの話です
たったそれだけなんですよ




勤務時間を過ぎてのクラブ活動もおかしいわけです
もっと言えば、勤務時間を過ぎて、学校にかかってくる電話に対応しないといけないのもおかしいのです
高校なんて留守番電話に切り替わりますからね、うらやましいですよね


そんなこんなでおかしなことばかりまかり通っているのが学校というものです
学級内では生徒たちがおかしなことばかり起こしますが、職員室では教員たちがおかしなことばかり起こしているわけです
笑うしかないですね


それもこれも明確な線引きをみんながしないからです
だから物事がうやむやになってしまい、何でもかんでもやってしまうようになります


成績についてもその傾向が強いのかなと思います
成績をつけるために提出物をしたり、小テストをしたりしますが、その回数が多ければいいという問題ではありません
多くすればするほどを教員の労力はかかるわけです




そんなことをするよりも、年度始めに成績の付け方を明確にしておいて、小テストは◯回、提出物は◯回で、◯月に行うのように決めておけばいいんですよ
明確に決めておかないから、たくさんデータを取ったほうがいいなどというあやふやな情報が出回って、どんどん仕事が増えていくのです

テストの問題数にしても、採点の手間ばかり増えるので、問題数は少なめに設定しておけばいいのです
それを最初から生徒に説明しておいて、全部で40問、などと言っておけば、生徒も納得するのです


こうした線引きはドライかもしれませんが、例えば成績であればは成績の出し方は決まっているわけで、評定のカッティングポイントも決まっているわけですよ
そんなふうに、我々がやることに対して、いろんな物事は線引きが決まっているわけで、最終的にはそれに合わせているわけなので、最初から合わせやすいように線引きしておけばいいのです

この線引きをうやむやにするから、迷走する時間が多くなり、その時の気分や風潮で仕事の量が増えていくのです

こうやっていろんな線引きをしていくと、今度は冷たいと非難を浴びます
おそらく読者の方も私のごとを冷たい人間だと思っているでしょう
でも、考えて欲しいのは、決めることを最初から決めておかないと、いろんなことがあやふやになって、その時の判断で決まってしまうのは、主観的すぎるんですよね
先に線引きをするというのは、ものごとに基準を作ることであり、基準づくりに明確な理由が必要になってくるので、説明責任も果たせるようになります



線引きをしないというのは、結論を先送りにして、今をごまかしているのと同じです
学級で嫌がらせが起きた時に、すぐに対処せずに「まあ、もう少しひどくなったら指導しよう」と言って逃げるのと同じです
決められないんですよ

こうやって決められない人間が素晴らしい仕事ができると思いますか?
決められないからこそ、簡単に物事を決める決断ができる人間のことを「冷たい」として非難するんですよね
線引きを明確にするのは本当は「生徒のため」であると私は思いますが、冷たいと非難する人間は、自分が無能であると実感したり、自分を充実させるために余計な仕事をするのを肯定するためであって、実は「自分のため」なんです


「生徒のため」と言って非難する人間は「自分のため」が多いわけです
線引きをしようと生徒のためにも、教員のためにもなることを提案する人間の足を引っ張るのも「生徒のため」を主張する人間であったりします

私の考え方がおかしいのかもしれませんが、教員の残業が減らない実態はこうした間違った「生徒のため」が蔓延しているからではないでしょうか